ひろ日記~心の病を抱えながら毎日少しの幸せを見つける方法~

うつ病、パニック障害、強迫神経症を抱えるひろが日々のあれこれを綴り闘い続けるブログ

自分の死後について考える2

今回はちょっと真面目なお話。
昨日実家に行った時に改めて父ちゃんに臓器提供の話をした。
そしたら。

「俺の眼の黒いうちは絶対に許さない!」

と言われ、私も少しカチンと来て「遺言書に書いてやる!」と言い放ってその話は止めになりました。



帰り、相方と話をしているうちに色んな事を考えた。
そのうち、駅のホームで泣きだす私。


あのね。別に周りの事を全く考えていないわけではないんですよ。
父ちゃんが反対する気持ちだって、「死んだ娘の体にメスは入れたくない」とか
「両親にもらった体を」とかね。
でも。私が言いたいのはそういうことではなく。
死してなお生きると言う事なんです。
死んだ私の体の、たとえば眼球。その眼球が待ち望んだ人のもとに運ばれて
その人の目となって生きていく。それってひろの眼が生きていると言う事と考える事は出来ないのか?
心臓や色んな臓器が違う人の体に入ってはいるけど、ひろが生きていると言う考えにはならないのか?
ひろの魂が生きていると言う事と考えてはくれないのか?
体は燃やされて、骨にしかならなかったけれど、臓器は違う人の体の中で生きている。
そんな素敵な事はないでしょう?
ひろの考えは間違っていますか?



例えばね。相方が死んで臓器提供をするという意思表示を残していてその通りにする。
ひろは、上記に述べた考えなので、相方がどこかで生きているって思える。
同じ空を観て、同じ空気を吸って、一緒には居られなくなってしまったけれど
どこかで、魂が、臓器が、誰かの為になり、ひろの心の支えになっていく。
残された人に残せるのって、骨だけではなくそういう形もあるのだとひろは思う。



じいちゃんがね。死んだときに骨になってようやく分かったんだよ。
死ぬってね、「無」になる事なの。
骨だけってね「無」になる事なの。
もしじいちゃんが臓器提供していたら、ひろはもう少し違う考え方になったかもしれない。
思い出だけでは辛すぎる。まさにその通り。
じいちゃんは、居なくなってしまった。本当にもうどこにも居なくなってしまった。



そんな事を考えて泣きだした。
父ちゃんに分かってもらう事はたぶんない。
手紙を書いても、遺言書を書いても、父ちゃんは理解できないと思う。
下手したら、「あいつ、本当に遺言書に書きやがった!」って恨まれるかもしれない。
でも。ひろが臓器提供をしてその提供を受けた人がもし手紙を書いてくれたら
その時本当に父ちゃんはひろの意思を分かってくれる「チャンス」が来るのだと思う。



長くなっちゃった。
読んでくれてありがとう。